今回は長野県千曲市の武水別神社(たけみずわけ-)について。
武水別神社は千曲川東岸の市街地に鎮座しています。
別名は八幡宮(はちまんぐう)、あるいは八幡神社(やわた-)。
創建は、社伝によると第8代・孝元天皇の時代とのこと。史料での初見は866年で、後年の『延喜式』では名神大社に列しています。ただし、ほかにも論社があります。
八幡宮が合祀されたのは安和年間(968~970)で、石清水八幡宮から勧請されたようです。以降は武士からの崇敬を集め、源義仲(木曽義仲)や上杉謙信が当社で戦勝を祈願しています。江戸時代には幕府の庇護を受けました。しかし1842年の火災でほとんどの社殿を焼失し、幕末に再建されています。明治の廃仏毀釈では、神宮寺が破却されたとのこと。
広大な境内を覆う深い社叢は県指定天然記念物。本殿は県内でも最大規模のもので、立川流の彫刻で彩られた豪勢な造りとなっています。また、境内社の高良社は室町時代のもので、長野県宝に指定されています。
当記事ではアクセス情報および高良社などの境内社について述べます。
現地情報
所在地 | 〒387-0023長野県千曲市八幡森下3012(地図) |
アクセス | 姨捨駅から徒歩40分、または屋代駅から徒歩50分 更埴ICから車で15分 |
駐車場 | 30台(無料) |
営業時間 | 随時 |
入場料 | 無料 |
社務所 | あり |
公式サイト | 武水別神社 |
所要時間 | 20分程度 |
境内
大鳥居
武水別神社の境内は南向き。境内入口は住宅地に面しています。
境内入口には大鳥居。巨大な明神鳥居が道路にまたがっています。扁額は「武水別神社」。
鳥居の先には石造の太鼓橋。
自家用車で参拝する場合、この太鼓橋の左脇から境内へ進入すると駐車場があります。
左奥の社号標は「武水別神社」。
社名は大阪府千早赤阪村の建水分神社(たけみくまり-)となんとなく似ていますが、祭神も異なり、当社とは無関係のようです。
境内社(高良社など)
境内に入ると、参道左手に境内社が東面して立ち並んでいます。
こちらの祠は、中央が鹿島社、左右が秋葉社。
こちらは「神輿休処」という社殿。
社殿は寄棟、茅葺。周囲は神門と塀に囲われています。
こちらは摂社・高良社(こうらしゃ)。
写真は高良社の覆い屋で、内部に本殿が収められています。
入口には石造の明神鳥居。覆い屋は切妻、銅板葺。
扉が開いているときの様子。閉まっていても、内部の本殿は格子の隙間からのぞき込めます。
高良社本殿は、一間社流造、こけら葺。見世棚造。
室町後期の造営(推定)。
「武水別神社摂社高良社本殿」の名称で長野県宝(県指定文化財に相当)に指定されています。
案内板の解説は下記のとおり。
高良社本殿の創建及び沿革については、確かな記録はないが、建築様式からみて室町時代後期、十六世紀ごろに建てられたと考えられる。
この建物は、一間社流造の系統に属するが、ふつうの流造にみられる周囲の廻縁や正面の階段は省略され、正面に小さな縁をつけるのみで、いわゆる「見世棚造」(みせだなづくり)に類似した形式となっている。
主屋の柱上の組物は舟肘木を用い、軒も垂木を用いない板軒であるなど省略した形式であり、この建築の意匠に一種の軽快な趣を与えており、この時代の本県の神社建築のなかで特色ある存在となっている。また、側面の妻飾に大瓶束と扠首組(さすくみ)を併用しているのは珍しい手法であり、虹梁や木鼻の絵様などは、室町時代の特色を示す貴重な建造物である。
平成五年、屋根を建築当初の杮葺(こけらぶき)に修理をおこない、さらに保存のために覆屋を設けた。
長野県教育委員会
千曲市教育委員会
所有者 武水別神社
向拝は1間。母屋の正面も1間。
案内板にあるとおり、正面に簡素な棚板をつけただけの造り(見世棚造)。軒裏に垂木はなく、板軒。
虹梁は無地の材が使われ、中備えは板蟇股。
向拝柱は角面取り。面幅が大きく取られ、古風です。上端はわずかに絞られています。
柱上の組物は出三斗。
側面には拳鼻がついています。
海老虹梁は頭貫の位置から出て、向拝の組物の上に取り付いています。
母屋柱は円柱。上端が絞られた粽柱。
軸部は貫と長押で固定され、柱上には台輪がまわされています。
頭貫と台輪には禅宗様木鼻。台輪木鼻の側面についた「く」の字型の繰形が印象的。
組物はなく、台輪の上に舟肘木が使われています。
妻飾りは、豕扠首の束の部分を大瓶束に置き換えたもの。
台輪木鼻や粽柱は、古式の神社本殿では使われない禅宗様の意匠。そのような意匠を取り入れていながら、古風な舟肘木を使っていて、独特な造りです。
妻飾りについては、案内板に“大瓶束と扠首組(さすくみ)を併用しているのは珍しい”とあります。私の知る範囲だと、粟狭神社旧本殿(千曲市)と坂城神社本殿(坂城町)でこのような手法が使われていたため、旧埴科郡(長野市松代と千曲市東部と坂城町)に特有の手法なのかもしれません。
母屋柱(奥の黒い柱)の床下は八角柱になっています。
円柱の床下を八角柱にするのは、室町時代に出現する技法。
手水舎
先へ進むと、参道左手に手水舎があります。
切妻、銅板葺。
柱は面取り角柱。独特な形状の木鼻がついています。
柱上は舟肘木。
中備えは蟇股。
手水舎のうしろには“甲越「八幡の戦い」記念碑”なる石碑。2018年建立。
武田氏・上杉氏による川中島の戦いは全5回行われ、その初戦にあたる第1次川中島の戦い(1553年、別名は布施の戦いあるいは更科八幡の戦い)は、当地が戦場となったようです。
一般に川中島の戦いというと第4次(八幡原の戦い、信玄謙信の一騎討ち)が有名で、第1次はあまり知られていないと思います。案内板を読んでも、とくに逸話や伝説のような話題は書かれていませんでした。
勅使殿
手水舎の先には二の鳥居が立っています。
木造の明神鳥居。扁額はなく、額束。
二の鳥居の先には勅使殿。
梁間1間・桁行2間、切妻(妻入)、桟瓦葺。
柱は角柱。
柱間に虹梁と台輪がわたされていますが、木鼻はありません。
組物は出三斗、中備えは蟇股。
妻飾りは笈形付き大瓶束。破風板の拝みには鰭付きの懸魚。
側面(桁行)は2間。
中央の柱上の組物は出三斗になっています。
こちらは、台輪の上の中備えがありません。
勅使殿の左手(西側)にも3棟の境内社が並立しています。
摂社は先述の高良社だけのようなので、いずれも末社のようです。
左から疱瘡社、神武天皇社、酒造租社。
こちらは右端の酒造租社。
字面からして、松尾大社(京都市)の分霊でしょうか。
虹梁は唐草が浮き彫りになっています。
中備えには彫刻。扇子を広げて踊る人物像が彫られ、その奥には水がめと松の木。
組物は出組、中備えは蟇股で、両者は肘木を共有しています(通し肘木)。
妻飾りは笈形付き大瓶束ですが、右側の笈形が欠損しています。
見切れてしまいましたが、上端の懸魚は猪目でも蕪でもない独特の形状。
高良社などの境内社については以上。