甲信寺社宝鑑

甲信地方の寺院・神社建築を語る雑記。

【大町市】仁科神明宮

今回は長野県大町市の仁科神明宮(にしなしんめいぐう)について。

 

仁科神明宮は長野県の北西部、大町市の郊外に鎮座しています。

この地は伊勢神宮に山の幸を献上していた御厨(みくりや)だったため、仁科神明宮は伊勢と同じ「神明造」(しんめいづくり)の本殿の建造を認められていました。

神明造という様式自体はそこまで珍しいものではないのですが、その多くが明治以降のものです。いっぽう仁科神明宮の本殿は江戸初期の造営で、本家の伊勢神宮を差し置いて最古の神明造となっており、国宝に指定されています。

 

現地情報

所在地 〒398-0003長野県大町市社宮本1159(地図)
アクセス 安曇沓掛駅から徒歩30分
安曇野ICから車で30分
駐車場 30台(無料)
営業時間 随時
入場料 無料(宝物収蔵庫は300円)
社務所 あり(1~3月は土日のみ対応)
公式サイト 国宝 仁科神明宮 <長野県大町市、日本最古の神明造>
所要時間 20分程度

 

境内

参道

f:id:hineriman:20191101195408j:plain
境内に入るとご神木の三本杉が現れます。もともと3本あったようですが、どういうわけか中央の1本だけが風で折れてしまったようです。

 

f:id:hineriman:20191101195439j:plain
三本杉から進むと、参道が左に90°折れ曲がる地点に手水舎があります。手水舎は参道の右手側に立っていました。訪問時(03/15)は境内の各所に雪が積もっていましたが、しっかりと水が出ていました。国宝の神社のだけあって手入れが行き届いています。

 

f:id:hineriman:20191101195511j:plain

参道を曲がった先は境内が南北に伸びており、二の鳥居が立っています。二の鳥居は傘木が直線的な形状をした“神明鳥居”というタイプ。なお、一の鳥居は境内の下の集落の中にあり、やはり神明鳥居です。

 

f:id:hineriman:20191101195717j:plain
参道から少しそれると澄んだ池があり、その奥には多数の摂社・末社があります。祭神の名前が書かれた札を見てみると、全国の一宮をはじめとする錚々たる面々が分祀されていました。

 

f:id:hineriman:20191101195753j:plain
参道を進むと一段高くなった場所に二の鳥居が立っています。奥に見える屋根は神門。

 

神門と拝殿

f:id:hineriman:20191101195829j:plain

写真右は神門。
この写真では見切れてしまっていますが、神門はこけら葺き、正面1間・側面2間で内部の間口は3間、柱はいずれも円柱。一般の参拝者は、この神門の前で柏手を打って礼拝することになります。

この手の門で側面(奥行)2間のものは、前後の柱を角柱にするのがセオリーなのですが、ここでは全ての柱に円柱を使っています。後述しますが寺社建築において円柱は角柱より格上です。すべての柱に円柱を使うことで、この神社の格の高さを表現しているのではないでしょうか。

 

f:id:hineriman:20191101201158j:plain

神門をすぎると写真右側にある拝殿が建っています。

俗人の空間である拝殿の柱は、いずれも角柱。それに対して、左に写っている本殿(後述)は拝殿より少し小さいですが、神の空間なので柱はすべて円柱。神社建築はこのようにして柱で格のちがいを表現するのが作法です。

拝殿も神門も、屋根には千木、鰹木、鞭掛(いずれも後述します)がついていて、神明造の本殿を意識したと思しきデザインです。

 

中門と本殿(国宝) 

拝殿の裏には、中門(右)と本殿(左)が鎮座しており、両者は釣屋とよばれる屋根で連結されています。中門、本殿ともに江戸初期の1636年(寛永十三年)の造営で、国宝です。

伊勢神宮は現在に至るまで20年毎に式年造替(新築)しています。いっぽうで仁科神明宮も江戸初期までそれを踏襲して古い様式を保ちつつ新築していたようですが、1636年を最後にして資金難のため新築をやめています(修理はその後も何度か行われている)。そして、冒頭に書いたように神明造という様式の本殿を造ることを許された土地は限られていたのもあって、仁科神明宮の本殿は現存する最古の神明造となっています。

また、鎌倉時代から欠かすことなく行われた式年造替の記録がすべて棟札に残されており、地味ですがこの点でも歴史的・文化的に非常に大きな価値があります。棟札は宝物収蔵庫に収められており、有料(300円)で見学できます。

f:id:hineriman:20191101202917j:plain

写真右の中門は檜皮葺の切妻(平入)で、正面1間・側面2間。壁はなく全方向が吹き放ち。江戸期は拝殿と呼ばれていて、ここで祭事を行ったようです。

 

写真左の本殿は檜皮葺の神明造(しんめいづくり)で、正面3間・側面2間。

彫刻や組物といった装飾が一切なく、屋根裏の垂木は一重。地味に見えるかと思いますが、神明造は神社本殿に彫刻や彩色がまだ使われていない頃の建築様式であり、この本殿は由緒正しく古式ゆかしい往古(平安時代以前)の神社建築の姿を留めているのです。

屋根の側面からとび出ている4本の細い棒は鞭掛(むちかけ)、屋根の棟に乗っている丸い部材は鰹木(かつおぎ)といいます。

屋根の上に伸びているX字状の部材は千木(ちぎ)といいます。千木は神社建築の象徴ともいえる部材で、たいていは屋根の上に“載っている”だけなのですが、神明造の本殿の千木は屋根の側面を覆う破風板(はふいた)と一体化しているのが特徴です。

本殿の室外には、ひときわ太い円柱が立っていて屋根を支えていますが、これは棟持柱(むなもちばしら)と言います。これも神明造の大きな特徴の1つなのですが、じつはあまり強度には貢献していないようです...

縁側は背面にも巡らされており、欄干(手すり)にはタマネギのような擬宝珠(ぎぼし)がついています。

 

本殿の柱はいずれも円柱。前述したように、円柱は角柱よりも格上なので、基本的に神社本殿は円柱が使われます。円柱が格上とされる理由は、材料となる丸太の入手性や成形の手間に起因します。

現代のような電動工具がない時代、精度のよい円柱を成型するにはまず丸太から四角柱を削り出し、四角、八角、十六角といったように角を落として円柱に近づけて行くほかありませんでした。また、丸太→角柱→円柱という成形プロセスで木材の大半を屑として捨てることになり、直径50cmの円柱が欲しいなら1mの丸太が必要でした。

こうした事情を考えると、大量の丸柱や本殿の室外にある極太の棟持柱を調達するのがいかに大変であるかお解りいただけるはず。しかも、これを20年に1回のペースで欠かさずにやっていたのだから驚きです。

 

2019年の式年造替後の境内

(※2019/11/02追記)

2019年は20年に1度の式年造替の年であり、10月中旬に工事が完了したとのこと。11月中旬に予定されている上棟式は混雑しそうなので、それを避けたタイミングで再訪してみました。

f:id:hineriman:20191103075120j:plain

拝殿の屋根は、以前はこけら葺だったはずなのですが銅板葺に変えてしまった模様。ちょっと残念ですが、檜皮・こけらのメンテナンスの大変さを考えると致し方なしです。千木・鰹木にも銅板を貼ったようで、ピカピカです。

ちょっと落ち着きがないようにも感じますが、風雨にさらされるうちに緑青(ろくしょう)の錆がついて落ち着いた色合いになってゆくことでしょう。

 

f:id:hineriman:20191103075729j:plain
本殿は屋根の檜皮(ひわだ)を葺きなおしただけでなく、千木と一体化した破風板や、鰹木も新調した様子。千木と鰹木は無塗装の白木のようなので、20年以上交換しないでいると腐食してしまうのでしょう。

造替された部分はまだ真新しくてあまり古さを感じられないですが、拝殿と同様、月日を経るにつれて落ち着いた深みのある風合いになることでしょう。

 

以上、仁科神明宮でした。

(訪問日2019/03/15,11/02)